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エセー 

詩は絵のように。(Ut picture poesis) 「近代絵画考」その2
                       2016.12.23


詩は絵のように。あるものは近づけば近づくほど、あるものは 離れれば離れるほど、君の心惹きつける。あるものは暗闇を好むが、あるものは光のもとで見られることを望み、批評家の鋭い批評を恐れない。あるものは一度しか喜ばせないが、あるものは10回目であっても喜ばせるであろう。 
        (ホラティウス、詩人、古代ローマ前65年〜8年)

 古くを尋ねれば、洋の東西を問わず、詩は絵のように、あるいは、絵は詩のように、という句がある。芸術のあるところなら、そのような言葉はどの世界文明にもきっとあったのであろうと思われるが、今ではあまり聞かれなくなった。
 西洋近代藝術では、そのジャンルの純粋性を極めるべく、詩に描写性を持ち込むこと、美術に物語性を持ち込むことは、不純とされた。しかし双方の核たる詩精神と絵心は同根から出現してくるのであるが、それに踏み込もうとすると言葉での説明は止んでしまう。それは言葉では直接名指しできない。それを言葉で覆うか、それを言葉で浮彫らし、透明で定かではないが、確かにそこにコツリとした手ごたえあるそれの何ものかを、絵にして、彫刻にし、音楽にする他ない。詩人とは、画家であり、彫刻家であり、音楽家でもある。
 それはそうとして、以下に、ホラティウスの一文を契機に、私の乏しい体験と断片的解釈の反射をささやかに記す。


あるものは近づけば近づくほど、あるものは離れれば離れるほど、君の心惹きつける。

 美大受験の頃、『遠目で「あっ!」と言わせ、さらに近目で「うん!」と言わせれば合格!』と、予備校の先生に教わったことを思い出す。自分でも予備校講師として教える時に使わせてもらった。「遠目によし、近眼(ちかめ)によし」は、絵の見方の基準と言っても良い。
 一般的にどこの絵画コンクールでも評価を得ているものの概ねがこれに当てはまる。18世紀に百科全書を著しフランスのサロン美術展の批評も著した世界初の美術批評家であった哲学者ディドロも、良い絵の基準を「遠目によし、近眼によし」としている。ただしディドロは、画面から適切に距離をとった時に、対象の充実した実感が最も現れるシャルダンの絵を特別視しつつ高く評価している。
 ホラティウスの言説は、視座の広がりを示唆しただけで、遠目か近目かの二択と受け取るべきでは無いことは、詩心絵心があれば分かることである。印象派の出現以前は、「遠目によし、近めによし」は西洋画においても規範であった。もちろん印象派はシャルダンの末裔と言って良い。

 私がパリでボナールの絵を観たとき、その絵を見るべき位置を、絵そのものから指定された様に、特に強く体験した。ある絵は、画面から13歩下がったところから、この絵は8歩下がったところから……。私は絵の前を前後に移動しながら確かめた。真実は実証不可能なのだが、その位置から観ると絵がぐっと立ち上がってきて、個々の対象物が画面の深さの中で緊密に一体化する妙味をより感覚できるのであった。ボナールがその絵を観ていた位置なのであろうと思った。さらに画面と自分が混交する場で、万象に宿る目に見えぬ光の如きものも感覚した。絵画とはかくの如し!と心が叫んだ。その体験に浸ってしまった後は、周りに展示されていたモダンアートの巨匠達の名作を観ても、その時はちょっと物足らなくなってしまった。作品がよそよそしい「物体」に見えてしまったのだ。ボナール絵画は、大方の鑑賞者には、遠目にふやけ、近目にふやけ、止め処も無い絵に見えるのであろうか。


あるものは暗闇を好むが、あるものは光のもとで見られることを望み、批評家の鋭い批評を恐れない

 本邦の古の雅な方々は、一日の時間の移ろいの中で、絵の味わい方楽しみ方を変えていたと思われる。東洋画の中で「余白」と言われる無地の面積が、最も大きく占める本邦絵画群の、特に障壁画の余白の効果は、日中は庇の長き故に奥が暗らまる部屋に外光を呼び込み明るさを反映させながら、華麗な装飾画の表の顔を見せた。夕方の暗がりに移ろう頃になると、あるいは部屋の燭台に一輪の炎をともすことによって、装飾的に描かれた事物を実体の如く浮かび上がらせつつ無限の奥行きを出現させる、リアリズムとしての裏の顔を見せた。明るくともよし、暗くともよし。

 私が大学を卒業して間もない頃、群馬県桐生市の創建ばかりの大川美術館にて、学芸員として勤めていた旧友の紹介で、初代館長の故大川栄二氏と一時の会話がもてる機会があった。「君ねえ、絵というものは、一緒に生活しなければ分からないんだよ。」と語られた。大川さんは中内功率いるダイエーの元副社長であった。「若いころ、本当は藤島武二が欲しかったけど高くて買えなかったので、まだ安かった松本俊介を少しずつ集めた。」とも言われた。ダイエー退職後一財を投じて、閉鎖された病院を買い取り改修し、大川美術館を建設された。絵が環境を作ってしまった一例である。

 ところで、美術館の歴史的名作を並べる企画展示室と団体展やサークル用の一般展示室では、場のしつらえや照明、展示方法の質があまりに違うので、展示室を逆転したら、個々の作品はどう見えるのだろうかと、ふと考えたりする。また、現代の生活環境、社会環境は、色付けされたプラスチック(石油系素材)と電気による光に覆われている。私はこれを「プラスチッキーな世界」と名付けている。絵は観られるべき環境を選ぶが、環境が観るべき絵を選びもする。

 批評というのは「ある視点から観たらこう見えた。」という体系であるから、観方は一面的であるが、説明し説得する言葉として強力である。詩精神は、言葉を煎じ詰めて真実を浮き彫りにしようとするので、常に受け手側の能動的な態度が尊重されかつ要求される。

 哲学者の森有正は、「言葉は、話すこと、聞くこと、書くことよりも、読むことが一番難しい。」と語っていた。多分、音楽は聴くこと、絵は観ることが一番難しく、さらに言えば、絵は、描けることより観れることの方が、文化的には遙かに尊いのではないかと感じることがある。西洋のあるいは古典支那文明の、大文化人大知識人の、深く、広く、高く観ることの面白さよ。
 しかし江戸時代まで、絵を描くこと、歌や俳諧を読むことは、庶民に至るまで盛んにおこなわれていた。その偉大な文化は戦前までは確実に続いていると言って良い。明治初期に来訪し帰化した文学者のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「日本人には生まれ持って画才がある。」と言っている。現代の文学者ドナルド・キーン氏は、日本軍人の残した手紙の詩的言語と歌や俳句、添えられたスケッチの感動から日本文化研究に入ったという。
 欧米では、現代でも、詩などを作るのは、高学歴であり、上流階級であり、そして絵を描くのはかなり特殊な人間なのである。本邦ではそれらは古く奈良時代より、一般庶民にまで広く行われていた。もちろん、西洋や支那文明の文学音楽美術には、他者に読ませ聴かせ見せるものとして、複雑高度な専門的技術や思想が必要であった。それとは反対に、本邦では「個人で楽しめ味わえ、みんなで参加して楽しめ味わえる」様に、単純簡便簡略なる藝術様式と作法が発展成立していたことが大きい。それゆえ「観方」の矮小化卑俗化も同時に孕むが、ここに本邦の国情の良さもある。世界を見回しても、絵を描く人口と絵を描く人口密度は、世界第二位を大きく引き離して、世界第一位であろう。
 描くことが観ることに、観ることが描くことに繋がれば、誠に結構なことである。

 絵の良し悪しの判定において、明治日本画の創始者である横山大観は、梯子か階段に例えて、「その人が梯子のどの高さにあるかで絵の見え方が違ってしまう」と言う様なことを語っていた記述を記憶している。梯子段の高さの違いで、上手いものが下手に見え、下手なものが上手く見えることもある。良いと悪い、面白いと面白く無い、等の基準も梯子段の高さの違いで、評価基準そのものが違ってしまう。平凡を装う非凡もあれば、非凡を装う平凡もある。同じものでも見え方が変わっていくことに、そこにある気付きと発見を得ることそのものが、「観る」ということの面白さである。

 絵画の場合、特に近代絵画群以降の西洋美術は、根本に異文明の詩精神と音楽性が横たわっているので観ることがもともと難しい。我々にとって、西洋古典主義とは何か?という根本的な問いとそれへの知的感受性の問題が横たわっている。西洋近代絵画群が、古典主義を批判しつつも古典主義の文脈に乗っていることを、本邦人が知覚感覚することの困難があるのだ。そしてまた、日本の近代洋画には特に日本的詩精神の注入が意識されており、西洋音楽とは違う韻律もあいまって、これを観ること、知覚感覚することは、外国人はともかくとしても、現代日本人にとっても、かなり困難な時代状況と精神状況となってしまった。
 とは言え、岸田劉生は「絵がわかるのは、日本人とフランス人だけである。」と語ってもいる。この言は、実は正しい。


あるものは一度しか喜ばせないが、あるものは10回目であっても喜ばせるであろう。

 詩や絵の、あるいは藝術一般の、その味わい方と優劣の判定の、ごく当たり前なかつ普遍的な基準となる句と言える。一度でも喜ばせたらたいしたものかもしれない。ここでの10回目は無限回とも同義であろう。

 時に禅語には「目で聞いて、耳で見る」という言葉がある。昔から「詩」にも「絵」にも、精髄としてはそのような奥深い味わい方があった。過去も現在も未来もそうであることに違いない。昔の日本人はそれを感覚する達人であった。今はかなり薄れてきたとはいえ、その種は今でも相当に持ち合わせている。ただ、使っていない、使おうとしていない、あるいは使っても実利が無いと思っているだけであろうか。
 作品が、密かに、私一人だけに語りかけてくる声を聞き、作品が私自身の似姿(にすがた)を発見する「鏡」とする時に、私自身と万象が現れる。

 最後に、しかも唐突に、詩人萩原朔太郎が大東亜戦争(太平洋戦争)開戦の前年である昭和十五年(1940年)、今からおよそ80年前弱に著した小論「昭和青年論」の書きだしと結語のみを抜粋引用したい。

 「明治の青年は『詩』に酔ひ、大正の青年は『観念』に酔った。ところで今の昭和の青年は、果たして何に酔っているだろうか。おそらく彼らは何物にも酔うことが出来ないということを、自ら自覚することの悲哀によって、逆に自虐的に酔っているのだろうか。……中略……外観上に於いて、彼らは小常識人かもしれない。だがその表情の深い内部に、過去の青年が悩んだ以上の、より深刻にして厳粛な宿題を持っていることを、決して見逃してはならないのである。少なくとも彼らは、過去の日本でデカダンと自称し、詩人と自称し、あるいは進歩主義者と自称したものの様に、芝居がかりのポーズばかりを看板にした、無知性のジェスチャリストではないであろう。」(萩原朔太郎全集第11巻)

 現代の青年達にも、この詩人の洞察があてはまる様に観える。

 詩は絵のように、絵は詩のようであれかし。
                    平成28年12月23日
 


















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