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エセー 

詩の本質性について(萩原朔太郎)    「近代絵画考」その3
                       2017.2.11

 
 このHPトップページには、彫刻家高田博厚の「……美術と音楽と詩は同一の根元から生まれるもの……」という言葉を引用している。なんとなく分かるようでいて分からない文言でもあろう。
 前回の「近代絵画考2」は「詩は絵のように、絵は詩のように」と、ホラティウスの古典的命題から、断章の拙文を記した。同一の根元を問う上で、ところで詩とはいったいなんぞや?を問わねばならない。
 そこで、萩原朔太郎の「詩の本質性について」(昭和11年・1936年)という小論を以下に引用掲載し、日本の古典的近代の「詩の論」として提出したい。この小論は、我々現代人が思う、「詩」というものの観念の一応の基準となるのではないかと思う。それほど長くない文章なので、ご一読いただければ、詩とは何か?詩人とは何か?という問いの行間を感知しつつ、私の言うところの「詩」の意味もある程度可感覚していただけるのではないかと思う。
 この朔太郎の小論は、時代の違いを感じさせる文章かもしれないが、詩精神の根本としては現代でも同じであり、看過されてしまっている重要な視座も多く含んでいる。根本的で大変難しい問題を語りつつ、それでいて、分かり易く、明るくユーモラスでもある。
また、「詩」を「絵画」と、「詩人」を「画家」と置き換えて読み味わうのも一考と思われる。
(より体系的な萩原朔太郎の詩論に興味がある方は、朔太郎渾身の詩論、「詩の原理」を推薦する。なお、「詩の原理」は、インターネットの青空文庫にて無料で読める)


詩の本質性について     
「詩人の使命(1937年)より・萩原朔太郎全集、第十巻」 
※旧字は部分的に新字に改めている。

1 詩の矛盾性 
 詩という藝術は、二つの矛盾した面を合わせて、一つに統一したような藝術である。一方から見れば、詩は文学中での最も素朴的、原始発生的のものであって、全ての散文の前に生まれ、人間心理の単純な情緒や嘆息やを、自然人のナイーブな心で自由に歌う文学であった。詩は発生学的にそうで「あった」ばかりではなく、不易の本質上に於いてもそうであり、常に文学中で最もナイーブなもの、自然人的なもの、素朴な野蛮主義的のものを表象して居る。然るにまた、これを一方から観察すると、詩は文学中での最も技巧的、純アート的の藝術であり、全ての散文の終わるところに、その最高の藝術形態を規範している。この点から立言すると、詩は文学中の純芸術派で、全ての素朴的なもの、自然発生的のものに対称してる文学である。故に詩人の中には、常にこの二人の対称人(文化人と自然人、藝術人と素朴人)とが同時に一人の性格中で、矛盾の構成する座を占めている。詩の本質は矛盾であり、その矛盾性が多いほど、詩人は天才に近づくのである。
 それ故に詩を考える場合には、常に相反する側の矛盾性を、相互に対照的に考察しながら、左右に目をくばらなければならないのである。もしこの対比を怠り、一方についてのみ思想する時、詩は素朴的バーバリズムの非藝術に没落するが、もしくはその反対に、精神なき形態観念の遊戯文学に堕落する。

2 自由と約束
 素朴的なものは、詩情する精神の中に存在する。詩人はすべての人間中での、最もナイーブなもの、子供らしいものの存在である。大人らしき心は、既に詩を離れた散文人に属している。子供だけが詩を作り得る。これは真理である。
 しかしながら同時にまた、素朴人は詩を藝術し得ないのである。なぜなら詩の藝術形態は、言葉の文化的神経とデリカに結合しているからである。詩人が子供であるという言葉は、十分に成熟したところの、文化人であることを前提とする。
 全ての詩精神は自由を求める。なぜなら詩は感情の表出であり、そして感情するということは、日常性の不自由から、心の開放されることの情態だから、すべての詩精神は、本質的にアナアキスティックである。しかしながら詩藝術は、必然的にフォルムとメッソドを要求する。散文的自由主義ということは、詩の藝術性の中に存在しない。詩は全ての文学中で、最も約束の多い藝術である。韻律と、ラインと、イメージと、てにをはと、それからあらゆる言葉の約束とが、詩の形態において規定されてる。詩は一つの「法律」である。何人も、その法律を知らない限り、詩を理解することができないし、自らまた、詩を藝術することができないのである。
 それゆえにすべての詩人は、素質上の自由主義者であって、同時に藝術上のフォルマリストである。最もお行儀の悪い野生人と、最も礼節の正しい文化人とが、いつも詩人の魂の仲で対座している。第一流の詩人達は、常に最も情熱的なロマンチストで、同時に最もレアリスチックな知性人であった。

3 詩人のイロニイ
 詩人の言うことは真実である。そしてまた当てにならない。なぜなら詩人と言う性格は、矛盾によって対座している、一つの弁証法的性格だから。詩人の表現するすべての言葉は、本質上に於いて皆逆説的である。イロニイとパラドックスとを理解し得ない人々は、詩と詩人を理解し得ない人々である。
 詩人は手品師と同じである。彼がその左手を観客に見せる時、種をその右手の中に隠している。

4 時は歌はうとするもの
 詩が実に歌はうと欲するものは、単なる素朴の感情ではない。詩が真に意欲する表現は、ただ一つの「美しきもの」でしかない。詩の目的は「美」を表現することの外になく、「美」が「一切のもの」なのである。
 ある多くの詩人たちは、この点で至極お粗末な誤謬をして居る。即ち彼等は、詩の目的性を、感情の表出おいて居るのである。感情の表出ということは、詩作に於ける主観上の「動機」であって、詩藝術における「目的」ではない。詩人が詩を藝術するということは、動物が怒って吠えたり、赤子が飢えて泣いたりするようなこと、即ち単なる生理的情緒の表出ではない。詩の表現にあっては、何より第一に、「酔」を求めて読んでいるのである。そして人を酔わすところの総てのものは、それ自ら「美しきもの」の本体なのだ。
 自由詩以来、日本の詩壇はこの芸術常識を忘れていた。そして多くの詩人たちが、単なる素朴的感情の表出を以って、詩藝術であるように妄想した。そこで彼らの文学は、政談演説的な絶叫であったり、赤子の泣声のような悲鳴であったり、動物的なパッショネートのものであったりした。即ちそれは藝術品の詩でなくして、素朴な生理的情緒の表出にしか過ぎなかった。

5 美への追求者
 詩人とは、単なる素朴な感情家や、パッショネートな主観人を意味するのではない。詩人がもしそんな意味の詩人だったら、獅子や虎の動物――パッショネートの純粋感情によってのみ、常に行動しているもの共――は、人間にまさる詩人と言わねばならなくなる。
 詩人とは、すべての日常的な感情と生活とを、楽しく美しいものに変化し、雑音をハーモニイの階音に変え、日常性を超現実のイデアに夢見ることに於いて、彼の情熱とテクニックを持つところの人を言うのである。即ち言えば、詩人とは「美」への追求者を言うのである。詩人は最も不幸な境遇に居るときでも、表現おいて常に「悦び」をもち、美の陶酔に溺れることができるのである。悲しい詩というものは存在する。しかし楽しくない詩というものは存在しない。詩にあっては、すべての悲しみがまた楽しいのである。
 心の弱い痛手を負った或る詩人が、その生活的打撃をにひどく疲れて、作品の書けないことを訴へた時、ゲーテは聡明にもはつきり言った。その痛手の中に悦びを見、不幸な生活を楽しく変化させることをしらないような人間は真の詩人とは言い得ないと。真の詩人は、いかなる場合に於いても人生の魔術師である。彼等は何物をも美化することができるのである。「詩人は彼の最も上機嫌の日に、最も厭世憂鬱の詩を書く。」とニイチェが言ったのも、同じ心理をイロニックに言ったのである。総ての厭世詩人は、その厭世藝術の中に魂の悦楽を所有している。厭世詩人が自殺するのは、しまいの自殺だけが蛇足である。

6 酔いの無い酒
 詩人が自ら酔わないで、どうして読者を酔はすことができようか。日本の詩人は、自然主義の文学論に愚昧されて、口語自由詩以来、自ら酔ふことを止めてしまった。そこで事実上、日本には詩といふ文学が滅びてしまつた。そもそもどんな読者が、酔いのない詩など読むだろうか。ボードレエルの教える通り、詩人の仕事は、絶えず何物かに酔いを求め、不断に酔っぱらっていることの人生である。

7 美とフォルム
 すべての美しいものは階音的である。そして階音的なすべてのものは、必ず本質上に楽典的のメソッドと形態がある。(ミューズは秩序を好む)詩が本来自由主義の放縦な精神に出発しながら、藝術上において避けがたく形態主義に結ばれるのは、それが美を意欲して居る
からである。そこで詩がもし美を意欲しない場合があるとしたら、その文学は必ず散文的自由主義に解体する。日本のいはゆる自由詩というものが、その最も好適な実例であった。彼らの詩人は、詩の目的性を美に求めないで、素朴的な感情の自然主義的表出に求めた。馬鹿馬鹿しいことにそれは「詩」では無かったのだ。

8 フォルマリストの錯誤
 詩のフォルムの本質すべき階音性は、元来「時間上」の観念に属するもので「空間上」の観念に或るものではない。然るに詩壇のいはゆるフォルマリスト等は、この時間上の実在性を空間上に翻訳し、幾何学的メカニカルに考察した。即ち彼等は、ベルクソン以前の誤謬観念を犯したのである。ベルクソンの教えた真理は、常識の考える時間というものが、空間上に翻訳された虚偽の時間であり、妄想的な誤謬観念であることだった。(注、参照)まことにベルクソンの言う通り、人間の理知というものは、すべての時間的なものを、必ず空間的に翻訳し、持続する意識の流れを、固定的、空間的の形態に変化させる。詩壇のいわゆるフォルマリストや韻律論者が、実際に於て一つの単なる「図式」にすぎず、何等真の韻律的階音性を持たないのは、その思想の根拠に於て、かうした妄想があるからである。
 詩は本来上に於て、たしかにフォルマリズムの藝術である。しかし詩のフォルムは、純粋持続の時間性にのみ存在して居る。これを空間上に翻訳したものは、却って詩を喪失させる虚偽のフォルマリズムに他ならない。真に詩の階音する本質のフォルムを知る為には、ベルクソンの教える如く、純粋時間の実相に於て、これを全体から直覚するより外にないのだ。そしてまた我々は、実際にこの仕方で、古来から詩の価値性を批判して来た。即ち真に詩としての善き韻律性や形態性を持ったものは、何等これを空間上に分析して考えないでも、一読して直感的にそれが知覚されるのである。そしてしかも、その直感には誤謬がないのだ。
※我々は例えば、一時間という時間を考える時、これを頭脳の中で、A点からB点の距離にしたり、或いは時計の指示盤の空間距離にしたりして考える。然るに真の時間というものは、そんな空間距離に翻訳されたものではない。真の時間は純粋の持続である。それは直観によってのみ把握される。ベルクソン

9 詩と大衆性
 詩は大衆から最も遠い所に居り、同時にまた近い所にいる文学である。民衆は、何物にもまして詩を悦ぶ。なぜなら詩は、音楽と共に、芸術と共に、芸術中での最も強い「酔」をあたへるから。そして民衆は、常にアルコールの含有量によつてのみ、芸術の価値を批判するから。しかしながら民衆は、散文の表現を理解し得て、詩の表現を理解し得ない。彼らの官能は粗野であって、芸術形態のデリカのものを嗅ぎ得ない。現実の社会にあっては、とりつきの易い散文と、詩の粗悪品の火酒だけが、大衆を安価に酔わしているのである。しかしながら「時」が、自然に大衆を教育する。未来に於いては、いつでも今日の高級品的藝術が、大衆の普遍的通俗品になるのである。ボードレエルがそうであるし、ハイネやゲーテがそうであつたし、石川啄木や北原白秋の歌がさうであった。
 現実に於いても、決して必ずしも詩は大衆から離れて居ない。日本の歌人や俳人や、文壇のジャーナリズムと没交渉に、全く大衆を直接読者として生活している。彼等の文学の愛読者等は、文壇小説の読者の数十倍して、殆んど通俗小説の読者に次いでいるのである。そして芭蕉の読者は、その生前においてさへも、遙かに同時代の散文学の読者をしのいだ。詩が民衆から最も遠く、そして同時に、最も民衆に近い藝術であることは、芭蕉に於いて完全に証明されるのである。
 今日の自由詩だけが、しかしながら、民衆から見捨てられている。なぜなら彼らのポエジイには、本質的に美の悦楽がなく、アルコールを欠乏しているからである。民衆は決して酔いの無い詩を読まうとしない。それは「現在に於いて」読まれないばかりでなく、「未来に於いて」も、永遠に大衆から読まれないだろう。

10 詩術
 「詩術」とは、読者を楽しませることの術である。そのためにこそ、芸術はすべてのトリックを使用する。嘘をついたり、誇張したり、吃驚させたり、色仕掛けで悦ばせたり、不意打ちを食らわせたり、空の魔法箱の中からいろいろの品物を取り出したりして見せたりする。
 詩術とは、読者をペテンにかけることの技術であり、その限りに於いて、すべての良き詩人は、花の咲かない花樹と同じく、無意味で退屈なものにすぎない。なぜなら彼等は、読者を楽しませることを知らないから。そして楽しみのないところの詩は、本質に於いて詩藝術でないからである。
 しかしながらポエジイ(詩精神そのもの)は、トリックでない。詩人が詩を思ふ心は、まことに切々たる熱意(モラル)であり、自己表現への焦燥である。詩精神そのものは遊戯でない。「遊び」は藝術のARTにあってHEARTにない。詩情するところの精神は、永遠のヒューマニズムに本質している。ヒューマニチィを離れて詩はないのである。
 詩人は常に真面目である。しかしながら詩藝術は、常に子供と同じく遊戯を好み、無邪気な嘘(う)言(そ)つきさえ好むのである。「全ての詩は虚言(うそ)である。しかしながらまた、すべての詩は真実(ほんと)である。」と、ジャン・コクトオがこれを言っている。虚言をさへつけないような、低能な詩人は無価値であり、真実(ほんと)だに言へないような、熱意(モラル)のない詩人は似而非物である。

11 詩と行動

 詩人は熱情家に非ず、単に彼等は、熱情にあこがれるところの人物に過ぎない、とニイチェが言っているが、まことにその通りであるかも知れない。真の「熱情家」と「熱情にあこがれる人」との相違は、実の金持ちと、金を欲しがっている人との如く距つて居る。真の熱情家は、詩人でなくして、実業家や、政治家や、相場師や、冒険家や、戦争をしたがる軍人等である。彼等こそは真の熱情的人間であり、人生を不断の行動によつて追及している。詩人という人種は、此等の「行動人」から最も遠い距離に居るところの、非熱情的、非行動的の人種である。しかもまた彼等は、それらの熱情や行動やを、最も強く意欲し、イデアにあこがれて居る人種なのだ。
 それ故にこそ、詩人は常にまた永久に退屈するのだ。彼らは行動を意欲している。そしてしかも、自ら何事の行動もできないのだ。そこで詩人の人生は、夢の中で焦燥しながら、絶えず退屈に悩まされている。ラムボオはその運命に腹を立て、癇癪をおこして詩と告別し、自ら身を以て行動人の群に入っていった。ハイネも一度はそれを考へ、社会主義の政治運動に投じたけれども、詩人であるところの彼の弱身が、遂に行動人であることを抑圧した。詩人が行動人になる以上は、もはや詩を作ることができないのである。ラムボオは完全に詩と告別した。しかるにハイネは未練がましく、行動人である時でさえも詩を思った。ハイネの方が詩人であつた。しかしながらラムボオこそは、詩人のイデアする英雄だつた。
 すべての熱情は、生活意欲のエネルギイ過剰である。然るに詩人は、原則としてエネルギストでないのである。詩人は「薄弱のもの」にすぎない。彼らはたた熱情にあこがれ、熱情を夢見るところの病人である。詩人が歌へることは何事でもない。「神よ。我に熱情を與へ給へ。強き人生を與へ給へ。アメン。」の言葉につきるのである。

               「詩の本質性について」萩原朔太郎

 この朔太郎の文章の行間は、詩の本質性だけでなく、美術の、芸術の本質性とも言えると思う。藝術の最高峰は文学であり、文学の最高峰は「詩」であるのだから。ボブ・ディランは「詩人」として、ノーベル文学賞を受賞した。

                      平成29年2月11日



















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